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イザークさんの伝言板物語 Part.1

赤い髪の先生


イラスト:らいんはると様


●もし、キルヒアイスがラインハルトより、10年早くうまれていたら.......。


<第1話>

帝国歴477年1月14日、ジークフリード・キルヒアイスは二十歳の誕生日を迎えた。
「これでようやく、おまえも大人の仲間入りだな」
そう言ってキルヒアイスの父は、息子の前に黒ビールを満たしたグラスをおいた。
「ありがとう、父さん」
「なに、息子と酒を酌み交わすことは、父親の数少ない楽しみの一つだよ」
ややあって、グラスのふれあう音が響いた。
「プロージット!」

キルヒアイスは高校を卒業の後、教師となるための修士課程に進んだ。
それは本人の希望と、両親の願いが見事なほどの同調を見せた結果だったが、
少なくとも彼の両親にとっては、やや深刻な願望もその中に含まれていた。
一般的に、帝国幼年学校を出た者は15歳で軍人となるが、それ以外にも 軍人となる道はいくつか存在する。
一般中等学校を卒業の後、士官学校へと進み、 軍人となる者もいる。
そして、その他の道を歩んだ者も、20歳になった時点で徴兵制度によって一度は軍人となるのだ。
しかし、医師や教師などの社会に貢献する幾つかの職業に就く者には、この制度が免除される。
よって、医師や教師などの志望者は、毎年超一流の大学をも上回る競争率をはじき出すのだ。
一人息子を戦場に出したくない両親は、合格通知を見たときに、キルヒアイスの
過去の記憶の回廊に記録されたことがないほどの喜びを見せた・・・。
すでに再来月には専攻の歴史学で、とある一般初等学校に研修を兼ねた臨時教師として赴任が決定している。
それが彼の人生と銀河の歴史の航路に、大幅な修正と変更を余儀なくされることになるとは、
キルヒアイス自身を含め、誰一人として思ってもいない事だった。

「ジークフリード・キルヒアイスです。短い間ですが、よろしくお願いします、皆さん」
長たらしい弁舌は、子供にとっては単なる苦痛でしかない事を身を持って体験していたキルヒアイスは、
赴任の挨拶をごくわずかな時間ですませた。
本来の担任で、やや神経質そうな面もちの、白い物がいくつか頭に存在する初老の教師は、
何事かいいたげであったが、 キルヒアイスはあえてそしらぬ振りをした。
一時間としない内に、優しく聡明な「赤毛ののっぽさん」はクラスの人気者となった。
キルヒアイス自身は、子供の頃にこんな先生がいたらいいな、と言う理想に基づいて行動したのだが、
十年たっても子供のメンタリティーと言うものはそう大して 変わっていないようだった。

「ゴマシオがなんかいいたそうだったろ、先生?」
昼休みに、見事な金髪の生徒が、キルヒアイスに話しかけてきた。
キルヒアイスが脳裏で人名録を検索すると、そこには「ラインハルト・フォン・ミューゼル」という文字が書いてあった。
成績はきわめて優秀だが、「フォン」の称号が示すとおり貴族階級の出身であるために、
平民階級の生徒たちからはやや敬遠されているきらいがある。
入学当初からこの学校に在籍しているが、なんでも今日家を引っ越ししたばかりらしい。
住所録にはまだ目を通していないが、そのうち見る必要があるだろう。
貴族というものには縁の薄いキルヒアイスだが、この生徒の見事な金髪と、
9歳にしてすでに人ならぬものの手によって造形されたような整った顔立ちに、
キルヒアイスは感心と納得をさせられていた。

「ゴマシオ?」
「元々の担任だよ。白髪が混じってるからみんな裏ではそういってるんだ」
「ゴマシオねえ・・・」
教師にあだ名は付き物である。
伝統的なものでは、出自のよくわからない
「ザビエル」なども根強く言い伝えられている・・・。
「あいつ元々士官学校の教師だったんだよ。なにかにつけて口うるさくて、嫌な奴なんだ」
「口うるさくても、先生は先生だよ。ちゃんと敬意は払わないといけないよ」
「いくら目上でも、敬意を払うに値する人と、そうでない人がいると僕は思うな」
「・・・・・・」
キルヒアイスは一瞬絶句した。たしかにラインハルト少年の言うことは一理あるが、
ここまで直線的に言葉で表現するのでは、 敬遠されるのも無理はない。
「ミューゼル君、僕はいいけど、他の先生の前ではあまりそういう事を言ってはいけないよ」
「どうして?」
「聞きたくもないお説教を聞かされて、大切な遊びの時間を取られるのは嫌だろう?」
暫く意外そうな表情をしていたラインハルト少年は、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、我慢しようね。そのかわり、僕の前では何を言ってもいいから」
キルヒアイスはラインハルト少年の両肩に手を添えて、そう諭した。
「うん、わかった!」
「よし、約束だよ」
「うん。でも、先生が初めてだよ。
「僕はいいけど」なんて言ってくれた先生は」
「そうなの?」
「うん!だから、友達になってくれる、先生?僕全然友達いないんだ」
友人がいないことをむしろ自慢するかのような口調でラインハルト少年はそう言った。
「いいよ。友達になろう、ミューゼル君」
「二人だけの時はラインハルトでいいよ。僕も先生を・・・」
「?」
「ジークフリードなんて、俗な名だよな・・・」
「・・・・(^^;)」
「でもキルヒアイスって姓はいいな。とても詩的だ。だから僕は先生の事、姓で呼ぶことにする!」

もしこの時椅子にでも座っていれば、非音楽的な不協和音と共に珍妙なリアクションがあったかもしれないが、
生憎芝生の上では、 表情の選択に困るしかない キルヒアイスだった。
しかし、失礼とかそういったものを突き抜けてラインハルトの性格を受け入れた瞬間、キルヒアイスの顔に自然と笑みがこぼれた。
「いいよ、友達だからね。ラインハルト君」
「呼び捨てでいいって、キルヒアイス」
「うーん・・・。呼び捨てにはあまり慣れていないから」
「いいっていってるのに。言ってごらんよキルヒアイス」
結果的に、キルヒアイスはラインハルトを「君」づけで呼ぶことを終生にわたって変えなかった。
さらにこの後、一緒に下校するにあたって、ラインハルトの越してきた家がキルヒアイスの隣家であることが判明し、
彼らは驚きと喜びを共にすることになる。


<第2話>

ジークフリード・キルヒアイスはその日、生まれて初めての経験をした。
昨夜に、「歓迎会」の名を借りた限界酒量の試験場に連れていかれたのだから無理からぬ事ではあったが、
二日酔いだからといって職務をサボタージュする事 が出来ない、自らの生来の勤勉さがこの時ばかりは僅かに煩わしかった。

「おはようございます、先生」
自宅を出たばかりのキルヒアイスに、この時鈴を振るかのような透明で清楚な
声が挨拶を投げかけてきたが、普段は明敏なキルヒアイスがそれに反応して振り返るまでに、
光にたっぷり100万キロほどの旅をさせたことを、誰が責める事 が出来ようか。
振り返ったキルヒアイスの視線の先には、すでに誰も存在していなかった。

帝国においては、新学年は1月から開始される。かつて人類が、地球上にのみ
存在していた時代には、様々な地域で様々な開始時期が定められていたが、それ
を煩わしく思ったルドルフ大帝の御代に、1月に定められたのだった。  
キルヒアイスが臨時に勤務する初等学校も例外ではなく、新学年が始まったばかりであり、
恒例とも言える家庭訪問の時期が始まっていた。
 
訪問の順番は生徒の生誕日が早い順番に行われる。今日はキルヒアイスの「友達」、
ラインハルト・フォン・ミューゼルの順番であった。  
よりによって二日酔いの日にこの順番とは、キルヒアイスとしては酒を司る神が存在するなら、
運命の不公平さに不平の一つも鳴らしたい所ではあったが、そ れに拍車を掛ける事態が発生した。 
普通ならば一緒に訪問するはずの本来の担任が、昨夜の「歓迎会」で前後不覚に陥ったあげく、
風邪をひいて寝込んでしまったのだ。
 
二日酔いの身としては、自己管理の甘さを徹底追及する資格すらないが、
事実を知ったときキルヒアイスは呪いの言葉をつぶやきつつ、思わず天を仰ぎ見た。 
もっとも、この茶番劇の当事者の一人であるラインハルトにとっては、異なる
見方が存在する。率直に言えば、「嫌ってる人間になんか来てほしくない」という事らしい。
 
「大神オーディンも照覧あれ。正義は必ず勝利するものなのだ!」  
なにが正義でなにが勝利か今一つ不分明ではあったが、キルヒアイスは苦笑しつつ、ラインハルトの頭をなでながら諭した。 
「嫌っている人間だからどうなってもいい、なんて考え方はよくないよ」  
「嫌いな奴を嫌いと言って、何が悪いのかなあ」  
「それはそうだけど、みんなに好かれないことは確かだよ」  
「別に嫌いな奴になんか好かれたくないな。僕の好きな人にだけ好かれればいいんだ。キルヒアイスはそう思わない?」 
キルヒアイスは返答に困った。二人で会話するときはいつもそうだが、
ラインハルトの言葉は時として真理の一角をかすめる事が一度ならずある。
しかしそれ は、この帝国では悲しむべき事に通用しない類の論理である事が多いのだ。 
(この子にとって、この国家はよいものなのだろうか)  

この時、ラインハルトとの出会いによって生まれた一粒の種子が、キルヒアイスの心の中で間違いなく発芽した・・・。 
否応なく、その時はやってきた。  

調査票の家までの略図を見るまでもなく、
当然のように迷いもせずにキルヒアイスは「ミューゼル」の表札が掛けられた家の前に佇んでいた。 
僅かに自らの佇まいをただして、キルヒアイスは家のベルを鳴らした。  
僅かな間があって、ドアが開いた瞬間、キルヒアイスはそこに繚乱たる花が咲いたかのように錯覚した。 
ラインハルトと酷似した、それでいて一段と繊細な、けぶるような微笑の表情をした美貌の女性が現れたのだった。
 
茫然自失するキルヒアイスに、その女性はこう言った。  
「まあ、先生。二日酔いの方はもうよろしいんですか?」  
我に返ったキルヒアイスが、その言葉の意味と、今朝の記憶を結実させた瞬間、
彼はその髪の色に負けず劣らぬ赤面をした。  
一応それなりに揃えていたはずの挨拶の言葉は、この時所有者の意志とは関係なくフェザーンあたりにまで旅に出かけてしまっていた。 
「あ・・・いや、その・・・」  
「弟から伺っておりますわ、キルヒアイス先生。どうぞお上がりになってください」 

「弟」という一言が、この時キルヒアイスに平静の俊敏さを回復させた。  
脳裏の人名録が忙しくページをめくると、「アンネローゼ・フォン・ミューゼル」と記してあるページで停止した。


<第3話>
ジークフリード・キルヒアイスの今までの生涯の中で、恋愛経験というものは極小の部類に属するものであった。
故に、女性に接する態度に慣れていない事に 関しては議論を差し挟む余地はないが、
同時にそれを批判する事も、何人たりともなし得ぬ事であろう。

自分が自分でないような感覚と緊張を身に纏いつつ、キルヒアイスは室内に招き入れられた。
質素ながらも、清潔で整頓されたリビングは、管理者の性格をうかがわせた。
「おかけになってください、先生。今コーヒーをお持ちしますわ」
「あ・・・どうぞ、お構いなく」
彼の「生徒」であり、「友達」でもあるラインハルト・フォン・ミューゼルの
姉、アンネローゼの問いかけに、無個性極まる返答しかなし得ぬキルヒアイスだった。
もっとも、こんな場面で個性的な返答をした処で何になるというのか?

ややあって、コーヒーの芳香がリビングに満ちる中、紋切り型の会話で家庭訪問が始められた。
母親ではなく姉が応対に出たことについては、キルヒアイスは意外には思っていなかった。
身上調書と、ラインハルト自身の話によって、姉弟が幼い頃に交通事故で亡くなっている事を
知っていたので、その点についてあえて言及するよう な非礼なことをキルヒアイスはしなかった。

「ラインハルト君は、やや協調性に欠けるところがあるようですね。
個人の性格ですから悪いとはいいませんが、友人が少ないようです」
「ええ、それは私も心配していました。ですから先生・・・」
アンネローゼはこの時、木洩れ日が差し込むような表情を赤毛の教師に向けた。
「弟は本当に感謝していますの。先生が友達になってくれたことを・・・。
毎日、先生のお話を自分のことのように自慢していますわ」

あのラインハルトの事だから、自分が聞いたら赤面ものの話に違いないとキルヒアイスは思った。
「どうか先生、弟と仲良くしてやってくださいまし」
ラインハルトのそれより、やや色調の濃い金髪の頭が僅かに下がった。
「弟は、あの子は他に友達を持とうとしないけれど、先生一人で十分と思う
気持ちは私にもわかります。引き受けていただけますか?」
「ええ。喜んで」

キルヒアイスが全霊をこめて頷いたのとほぼ同じくして、玄関先に見事な金髪を所有する小型の台風が入ってきた。
「ただいま、姉さん!あ、キルヒアイスも来てたんだ!」
「まあ、ラインハルト!先生に向かってなんです!」
「いいんですよ、お姉さん。彼とは、対等の友達なのですから」
「そうだよ姉さん。ねえ、それより今日のお茶には何が出るの?」
アンネローゼは、困ったような、それでいて限りなく優しい微笑みを浮かべた。
「困った子ねえ・・・。まず、服を着替えてらっしゃい。それから手を洗ってここに来たらおしえてあげる」
元気な返事と共に手洗い場へ消えたラインハルトを見やると、アンネローゼはその瞳を弟の友達に向けた。
「お時間がよろしければ、先生もいかが?林檎のパイを焼きましたの」

今日の訪問はラインハルトの所が最後で、その後は直帰である。時間は山ほど残っていた。
「予定はありませんが、よろしいのですか?私がお邪魔しても」
くすくすと笑いながら、アンネローゼが答えた。
「弟の「お友達」をお迎えするのに、やぶさかではありませんわ」
キルヒアイスは再び、少年のように赤面した。
その後も、キルヒアイスとミューゼル姉弟の心温まる交流は続いた。
臨時講師としての任期を大過なく勤め、学校を離れる時は来たが、大部分の生徒たちの熱望により、
本採用扱いで特例的に学校に籍を置くことも決定した。 (最も熱心に希望したのが誰か、書くまでもない)

幾ばくかの時が過ぎる内、キルヒアイスのアンネローゼに対する心情に、
「親友のお姉さん」というもの以外の成分が加わってきたのは、ある意味必然と言うものであったのだろうか。
キルヒアイス本人は意識していなかったが、ラインハルトのいないときでも 幾度か隣家へと顔を出していたので、
彼の両親にしてみれば一人息子の心情は見え透いていた。
幸せの時は無限に続くかと思われたが、しかしこの時、運命の歯車はこの三人を巻き込むべくして、
着実に回転をしていたのである・・・。


<第4話>

コルヴィッツは、帝国騎士の称号を有する宮内省の官吏である。
彼はその日、仕事のためにとある裏町の一角に足を運んでいた。
平たく言えば、その仕事は単なる人捜しである。
しかし、ごく通常のケースとは依頼人とその内容が著しく趣を異にしていた。
依頼人は、彼ら宮内省の職員の99%にとって上司にあたる宮内尚書であり、
その宮内尚書に命令を下したのは、さらに上司に当たる銀河帝国皇帝フリードリヒ4世であった。

そしてその「捜索」の対象は一人ではなかった。皇帝の寵愛を得るべき、
清楚で美しい十代半ばの不特定多数の少女がその対象となっていた。
コルヴィッツを含め、彼の同僚達は文字どおり足を棒にして探し回っていた。
そしてこの日、夕闇が大気を侵略し始める時刻に、コルヴィッツは一人の少女を見いだしたのである。
黄金の髪、青玉の瞳、白磁の肌もさることながら、粗末な服を着ていながら驚くべき透明感と清楚さが、
コルヴィッツに強い印象を与えた。

その少女のまわりには、同じく見事な金髪を有する少年と、二十歳前後と思しき赤毛の青年がいたのだが、
少女の印象があまりにも強烈であったため、コルヴィッツは意に介さず懐中の携帯式ヴィジホンに手を伸ばした。
結果的にこの時、赤毛の青年をコルヴィッツが意に介さなかったことで、
後世の歴史に尋常ならざる変化が及ぼされることになるのだが、
それをもってコルヴィッ ツを責めたてることが出来る者がいるとすれば、
人ならざる者しかなし得ぬ事であ るだろう。

隣家で夕食を共にした後、ジークフリード・キルヒアイスは自室で僅かな書類の整理をしていた。
季節は夏から初秋に入り、学校も新たな学期がすでに始まっていた。
キルヒアイスの両親は、父親がこの時期になってようやく休暇が取れたこともあり、
キルヒアイスがこれまでに貯蓄した給料で親孝行をすべく、恒星間旅行をすすめられて現在は旅の空であった。
「もう、5ヶ月になるのか・・・」
隣家に美しい姉弟が来てからの期間を、キルヒアイスは口にした。

彼らの存在が、キルヒアイスの人生行路に与えた影響は、決して無視し得るほど軽いものではなくなりつつあった。
彼の生徒であり、お互いにとって掛け替えのない友人となったラインハルト・フォン・ミューゼル。
その鋭すぎる、それでいて繊細な銀の剣を思わせる性格を包み込む鞘たるべく、キルヒアイスは己の役割を心に念じていた。
そしてその姉、アンネローゼ。その存在は、初めて出会ったその日から、キルヒアイスの心の中のある領域を、
まるでそれが運命であったかのように占有し、今日 にいたるまで根を張り、成長を続けていた。

書類の整理を終えると、軽いあくびが出た。時計を見ると、まだ眠りの神が囁きかけるには早い時間ではあったが、
キルヒアイスはベッドへ入ることにした。
この時、豪華な地上車が隣家の門前に停車したが、キルヒアイスはそれにも、
数時間後に訪れる人生の変転にも気づいていなかった。

窓の叩かれる音で、キルヒアイスは僅かな微睡みから現実世界へと浮上した。
窓外に見知った顔を認めて、キルヒアイスは窓を開けた。
「ラインハルト君?どうしたんだい、こんな時間に・・・」
当然のような質問の後に、ラインハルトの目がやや充血し潤んでいるのを見たキルヒアイスは、
少年を室内に招き入れた。
「どうしよう、キルヒアイス、どうしよう・・・」
普段のラインハルトの姿からは想像のつかぬほどの弱気の態度に、
ただならぬ事態を見て取ったキルヒアイスは、ごく穏やかに問いただした。
しかし、平静はすぐさま激情と困惑に変化を遂げた。ラインハルトの告白は、
キルヒアイスの予想だにしなかった方向から精神的な爆撃をかけてきたのだ。

あの美しいアンネローゼが、50万帝国マルクの仕度金で皇帝に「買い取られた」という事実は、
キルヒアイスにとっても許容し得るものではなかった。
瞬間的にフィードバックを遂げた記憶の回廊に、ある項目をキルヒアイスは見い出した。
一日、ラインハルトはキルヒアイスにこう語ったことがある。
「父さんは、お前も女に生まれればよかったのに、って僕によくいうんだ」
その示唆する意味を、いまやキルヒアイスは完全に理解していた。

しかし、こう まで愚劣かつ醜悪極まる出来事が現実化するとは!
皇帝の漁色というものは、皇統の保存を義務とされる王者にとっては、
ある意味 必然とも言える行為であり、その点に関してはキルヒアイスは、
眉をひそめつつも 全否定はしていなかった。
しかし皇帝には、すでに皇太子ルードヴィヒが存在しており、今この時に皇統の保存の必要性があるとは思えなかった。
加えてここまで身近でそれがおきると、あまりの理不尽さに許容の臨界点をいともたやすく突破し、
怒りすら沸き上がってきた。

この時、キルヒアイスの心の中で、ラインハルトとの出会いによって発芽した疑念の苗が急成長をとげ、
大木となった一本の枝に一つの果実が結実した。
ともすれば禁断の領域にあるその果実には、「亡命」の文字が記されていた。


(続く)